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日蓮大聖人のご生涯

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1 ご誕生から出家まで

ご誕生

 日蓮大聖人は、貞応元年(1222年)2月16日、安房国(千葉県)長狭郡東条郷小湊の漁村に、三国大夫(貫名次郎)重忠を父とし、梅菊女を母としてご誕生され、幼名を善日麿<ぜんにちまろ>と名づけられました。

 大聖人は、このご自身の出生について、

「日蓮今生には貧窮下賎<びんぐげせん>の者と生まれ旃陀羅<せんだら>が家より出でたり」(佐渡御書 新編580頁)
「日蓮は安房国東条片海の石中<いそなか>の賎民が子なり」(善無畏三蔵抄 新編438頁)
等と、当時の身分制度の中でもっとも低いとされる階層より出られたことを述べられています。

 このことは、大聖人が「示同凡夫<じどうぼんぷ>」のお立場より、下根下機の末法の一切衆生を救われるという、仏法上の深い意義によるものです。

 大聖人のご誕生当時における世相は、前年の承久3年(1221年)に朝廷方が北条義時らの鎌倉幕府に敗れ、しかも御鳥羽・土御門・順徳の三上皇が流刑に処せられるという未曾有の大事件(承久の乱)が起こるなど、「下克上」の混乱がそのまま五濁悪世の末法の様相を示していました。

 

立願・入門

 善日麿の幼少期、世間においては悲惨な事件が相次ぎ、大風雨や干ばつなどの天災によって大飢饉も発生し、世情の不安は募るばかりでした。聡敏な善日麿は、前の承久の乱をはじめとする数々の凶相は何によるのかという疑問を持つに至り、これらの社会の混乱を解決するため、天福元年(1233年)、12歳のとき、「日本第一の智者」となるために学問を志して、小湊にほど近い清澄寺<せいちょうじ>の道善房のもとへ入門されました。

 入門後の善日麿は、主に兄弟子の浄顕房・義浄房の2人から、一般的な教養と仏典を中心とした読み書きを学び、生来の才能と求道心によって、その智解を深めていきました。

 このようななかで、入門以前からの疑問が善日麿の心中で次第に明確な形となって表れてきました。

 その一つは、承久の乱において、天皇方は鎮護国家を標榜する天台真言等の高僧により、調伏の祈祷をあらん限り尽くしたにもかかわらず惨敗し、三上皇が島流しに処せられてしまったのは何故か。

 二つには、安房地方の念仏を唱える行者の臨終が苦悶の姿、悪相を現じたのは何故か。

 三つには、釈尊の説いた教えが各宗に分かれ、それぞれ優越性を主張しているが、釈尊の本意はただ一つなのではないか、というものでした。

 

出家・諸国遊学

 善日麿は16歳の時、前の疑問の解決と仏法の真髄を究めるために出家得度し、名を是聖(生)房蓮長と改め、日々の修行に精進し、昼夜を分かたず研学に励まれました。

 そして2年後の春、清澄寺所蔵の経巻・典籍をことごとく読み尽くした蓮長は、さらに深い研鑚の志を抱いて、諸国へ遊学の旅に立たれました。

 この遊学は後年、

「鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国々寺々あらあら習ひ回り候ひし程に云々」(妙法比丘尼御返事 新編1258頁)
と述べられているように、多くの仏典・書籍を求め、政治・経済の中心地であった鎌倉や、当時の仏教の中心地ともいうべき比叡山延暦寺をはじめとする古刹を歴訪される旅で、それは14年間にもわたりました。

 このような長い修学のなかで会得されたことは、1には諸宗が釈尊の本義に背き、すべての災いの根元であるということ、2には末法に弘めるべき法は法華経の肝心たる妙法五字であり、自身こそ、この要法をもって末法濁悪の世を救済する「地涌上行菩薩の再誕」であるとの自覚でした。

 

2 宗旨建立

立宗宣言

 遊学の旅を終えられた蓮長は、建長5年(1253年)の春、32歳の時に故郷・小湊の清澄寺に帰山され、深い思索を重ねた後、いかなる大難が競い起ころうとも「南無妙法蓮華経」の大法を弘通しなければならないとの不退転の決意を固められました。

 そして4月28日、蓮長は夜明け前より清澄山・嵩が森の頂に歩みを運ばれ、昇り来たる太陽をはじめとする宇宙法界に向かって、「南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経・・・」と題目を唱えられ、宗旨を建立されました。このときの心境を、後に日蓮大聖人は、

「これを一言も申し出だすならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来たるべし。いわずば慈悲なきににたりと思惟するに、法華経・涅槃経等に此の二辺を合はせ見るに、ば今生は事なくとも、後生は必ず無間地獄に堕つべし。いうならば三障四魔必ず競ひ起こるべしとしりぬ」(開目抄 新編538頁)

と述懐されています。

 大聖人の唱え出だされた「南無妙法蓮華経」は、

「仏記に順じて之を勘ふるに既に後五百歳の始めに相当たれり。仏法必ず東土の日本より出づべきなり」(顕仏未来記 新編678頁)
「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」(報恩抄 新編1036頁)
と仰せのように、一切衆生のために「東土の日本」より出現し、末法万年・未来際にわたって全世界に流布していく古今未曾有の独一本門の題目であったのです。

 

日蓮の二字

 宗旨建立を機に蓮長は、今までの名を自ら改めて「日蓮」と名乗られました。これは、法華経「涌出品第十五」の

「世間の法に染まざること蓮華の水に在るが如し」(開結425頁)
の経文と、「神力品第二十一」の、
「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し」(開結 516頁)
との経文に由来するものです。このことについて大聖人は、
「明らかなる事日月にすぎんや。浄き事蓮華にまさるべきや。法華経は日月と蓮華となり。故に妙法蓮華経と名づく。日蓮又日月と蓮華との如くなり」(四条金吾女房御書 新編464頁)
と示されています。

 すなわちこの「日蓮」の御名のりは、あたかも太陽が一切の暗闇を照らし、蓮華が汚泥より生じて清浄な花を開くように、日蓮大聖人御自身こそ、末法万年の一切衆生の闇を照らし、濁悪の世を清浄にするために出現された上行菩薩の再誕を明示されているものなのです。さらに、

「日蓮となのる事自解仏乗とも云ひつべし」(寂日房御書 新編1393頁)
と仰せられ、自らが仏の境界であることを示されています。

 

初転法輪

 立宗をされた後、大聖人はその日の午の刻(正午)、清澄寺・諸仏坊の持仏堂においてはじめて妙法弘教のための説法の座に登られました。

 そしてその座において、当時、もっとも流行していた念仏や禅宗等の誤りを指摘され、法華経こそが最高の法であり、末法の衆生はこの教えによってのみ救われる所以を力強く説かれました。

 念仏の強信者である地頭の東条景信は、この説法を聞いて烈火のごとく怒り狂い、その場で大聖人の身に危害を加えようとしました。このことはまさに法華経「勧持品第十三」に、

「諸の無智の人の 悪口罵詈等し 及び刀杖を加うる者有らん」(開結 375頁)
と説かれる経文が、そのまま事実となって現れたものでした。

 しかし、大聖人はこの危機を浄顕房・義浄房たちの助けによって逃れられ、景信の領地外である花房の地に身を寄せられました。

 その後、大聖人は両親への真の孝養を果たすべく、小湊にいる父母の元を訪ね、諄々と法の道理を説いて教化し、御父に「妙日」、御母に「妙蓮」という法号を授けられました。

 

3 鎌倉期

立正安国論(第一の国諌)

 大聖人は、建長五年(1253年)の8月頃、鎌倉・名越の松葉ヶ谷に小さな草庵を構え、鎌倉の辻々に立って「念仏無間」「禅天魔」と破邪顕正の弘教をはじめられました。

 これに対し人々は誹謗や悪口をもって妨害しましたが、そのような中からも日昭・日朗が弟子となり、富木常忍・四条金吾等の多くの人が信徒となりました。

 この鎌倉時代中期の建長・康元・正嘉の頃は、大火・暴風雨・大地震や疫病の流行等、いまだかつてない異常な出来事や悲惨な災害が続いていました。これに対して幕府は、各宗に命じて除災の祈祷をさせましたが、災難は一向にやむことはありませんでした。このようななか、正嘉元年(1257年)8月23日に未曾有の大地震が起こりました。大聖人はこれらの災難の起因を明らかにするために、翌年2月に駿河国岩本(静岡県富士市)の実相寺の経蔵に入り、一切経の閲覧をはじめられました。このとき、近くの四十九院で修行していた13歳の伯耆公(日興上人)が、大聖人の高邁な人格と尊容に接して弟子となり、給仕にあたられました。そして文応元年(1260年)、大聖人は畢生の書「立正安国論」を完成され、同年7月16日、宿屋入道を介して、ときの最高権力者・北条時頼にこの書を奉進されました。

 この「立正安国論」には、

「世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てヽ相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる」(新編234頁)
と、人々が正法に背き悪法に帰依したことにより、善神がこの国を捨て去り、悪鬼魔神が来たって前代未聞の災難を起こすことを示されています。

 さらに、「安国論」には、この災難を除くためには、当時、もっとも流行していた念仏の邪義を断ち、法華一実の正法に帰すことが肝心であると説き示されています。また国の主権者に対し、如来の金言に耳を傾けることなく謗法を対治しなかったならば、「薬師経」「仁王経」等に予証される七難のうち、いまだ現れていない「自界叛逆の難(一門の同士討ち)」・「他国侵逼の難(外敵の来襲)」の二難が必ず起こるであろうと予言されています。

 大聖人は「立正安国論」の提出をもって幕府を諌め、邪法に帰依する誤りを糾されました。これが大聖人一期の御化導における第一回目の国主諌暁でした。

 

松葉ヶ谷の法難

 既成仏教に執着していた幕府為政者たちは、「立正安国論」を受け入れるどころか、かえって大聖人を怨み、陰湿な策謀をひそかに進めました。

 そして、文応元年(1260年)8月27日の夜半、執権長時の父・北条重時(極楽寺入道)の意を受けた念仏者らの謗徒たちは、松葉ヶ谷にあった大聖人の庵室へ夜襲をかけました。この命に及ぶ危機のなかを、不思議にも大聖人は傷一つ負うことなくその場を逃れられました。大聖人はこの法難の様子について、

「夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせしかども、いかんがしたりけん、其の夜の害もまぬかれぬ」(下山御消息 新編1150頁)
と述懐されています。

 その後大聖人は、しばらく下総(千葉県)の富木常忍のもとに身を寄せられ、その地における折伏教化によって太田乗明・曽谷教信等を入信に導かれています。

 

伊豆配流

 大聖人は、松葉ヶ谷法難の翌弘長元年(1261年)の春に再び鎌倉へ戻り、さらなる弘教を開始されました。

 これを知った幕府の執権長時は同年5月12日、その権力によって大聖人を捕え、ただ一度の取り調べをすることもなく伊豆の川奈へ流罪に処したのです。

 しかし大聖人は、この伊豆配流の間を、

「去年の五月十二日より今年正月十六日に至るまで、二百四十余日の程は、昼夜十二時に法華経を修行し奉ると存じ候。其の故は法華経の故にかヽる身となりて候へば、行住坐臥に法華経を読み行ずるにてこそ候へ。人間に生を受けて是程の悦びは何事か候べき」(四恩抄 新編266頁)
と述べられ、法華経色読・如説修行のときとして悦ばれています。

 また、この知らせを受けた日興上人はすぐさま大聖人のもとに参じ、常随給仕するかたわら折伏弘教にも励み、熱海において真言僧・金剛院行満を改宗させたのをはじめ、伊東周辺でも多くの人々を帰依させました。

 なおこの間、大聖人は「四恩抄」「教機時国抄」「顕謗法抄」等の多くの御書を著されています。

 

小松原の法難

 弘長三年(1263年)2月、北条時頼の赦免状により、再び鎌倉の草庵に戻られた大聖人は、翌文永元年(1264年)の秋、御母・妙蓮が危篤との知らせにより、12年ぶりに故郷の安房へと急ぎ向かわれました。

 大聖人が帰り着かれた時、母の様子は病篤く、まさに臨終の状態でしたが、

「日蓮悲母をいのりて候ひしかば、現身に病をいやすのみならず、四箇年の寿命をのべたり」(可延定業御書 新編760頁)
とあるように、大聖人の御祈念によって病は回復し、4年間の寿命を延べられました。

 その後も大聖人は、安房の地に留まって妙法弘通に専念されていました。

 大聖人の帰郷を聞いた篤信の信徒である天津の領主・工藤吉隆が大聖人の来臨を請い願ったため、大聖人は11月11日に10数人の共を連れてその館に向かわれました。これを知った地頭の東条景信は、以前より大聖人を念仏の敵として狙っていたので、大聖人一行が夕刻、小松原(鴨川市)にさしかかったとき、武器を持った数百人の念仏者を率いて襲い掛かりました。このときの様子について大聖人が

「十一月十一日、安房国東条の松原と申す大路にして、申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられ候ひて、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものヽ要にあふものわづかに三四人なり。いるやはふるあめのごとし、うちたちはいなづまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事のてにて候。自身もきられ、打たれ、結句にて候云々」(南条兵衛七郎殿御書 新編326頁)
と述べられているように、弟子一人が殺され、二人が重傷を負うなか、御自身も景信の太刀によって右の額に深手の傷を受けられ、左手を骨折されるという、命にも及ぶ大難を蒙られたのです。

 このことは、法華経「勧持品第十三」に説かれる、

「悪世の中においては、正法の弘教者に対して刀杖を加える者がある」(開結375頁 趣旨)
との経文そのものの様相でした。

 

蒙古の来牒と十一処への直諫状

 文永5年(1268年)1月に蒙古国の使者が到来し、日本に服属を求める威嚇的な内容の国書を幕府に送ってきました。

 これは、大聖人がすでに8年前に「立正安国論」をもって予言された「他国侵逼の難」が、まさに現実のものとなって現れてきたものです。蒙古よりの牒状が来たことを聞かされた大聖人は、同年4月5日、幕府の要人であった法鑒房へ「安国論御勘由来」を認め、また8月と9月には宿屋左衛門入道へ書状を送り、再度諫言されました。

 しかし幕府側からの反応はまったくありませんでした。

 そこで、大聖人は、10月11日幕府首脳の北条時宗・平左衛門尉頼綱・宿屋入道・北条弥源太、及び七大寺といわれた極楽寺良観・建長寺道隆・大仏殿別当・寿福寺・浄光明寺・多宝寺・長楽寺の11箇所に宛てて諫状を認められ、公場対決によって法の正邪を決し、速やかに帰伏するよう諌められました。大聖人がこの諫状を認められた真意は、

「諸宗を蔑如するに非ず。但此の国の安泰を存ずる計りなり」(長楽寺への御状 新編380頁)
と仰せのように、蒙古来襲という国家の大事にあたり、ひたすら一国の安泰と民衆の平安を願う一念にほかなりませんでした。

 しかし、鎌倉幕府の首脳はこれにまったく耳を傾けないばかりか、陰で大聖人の悪口を言い、嘲笑するというありさまでした。

 

良観の祈雨

 文永8年(1271年)5月ごろから全国的に日照りが続いて大干ばつとなったことにより、幕府は、当時人々から生き仏のように崇められていた極楽寺良観に雨乞いの祈祷を命じました。

 このことを聞かされた大聖人は、これを機会に仏法の正邪を万人に知らしめようとされ、良観に対し、

「七日の内にふらし給はヾ日蓮が念仏無間と申す法門すてヽ、良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば、彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし。(中略)又雨らずば一向に法華経になるべし」(頼基陳状 新編1131頁)
と、祈雨に際しての約定を示されました。

 これを受諾した良観は、多くの弟子たちとともに一心不乱に祈りましたが、七日はおろか、さらに願いに出た七日の延長期限にも雨を降らすことができず、それどころか以前よりもはるかに干ばつは激しくなって暴風が吹き荒れ、人々をますます苦しめる結果となり、ついに良観の祈雨は惨敗に終わったのです。

 

第二の国諫

 祈雨に敗れた良観は、前の約束を守るどころか諸宗の僧等と謀議を企て、大聖人に対するさまざまな悪口讒言を幕府要人に吹聴しました。これにより文永8年(1271年)9月10日、大聖人は評定所へ召喚され、平左衛門尉の尋問を受けることになりました。このとき大聖人は、

「仏の使い日蓮を迫害するならば、必ず仏天の罰を蒙り、自界叛逆・他国侵逼の二難が起こるであろう」(種々御振舞御書 新編1057頁趣意)
と厳しく諌められ、そしてさらに翌々日の9月12日には、同じく平左衛門尉に対して書状を送られ、
「抑貴辺は当時天下の棟梁なり。何ぞ国中の良材を損ぜんや。早く賢慮を回らして須く異敵を退くべし」(一昨日御書 新編447頁)
と再度反省を促されたのです。

 これらの諌暁に対して平左衛門尉は、ますます憎悪の念に駆られ、その日のうちに武装した数百人の兵士を率いて松葉ヶ谷の草庵に押し寄せました。そのありさまは、一人の僧を捕らえるにはあまりにも物々しく、兵士たちは経巻を踏みにじるなど暴虐のかぎりを尽くし、なかでも平左衛門尉の一の郎従従・少輔房は、大聖人が懐中されていた「法華経第五の巻」を奪い取り、その経巻で大聖人の頭を3度にわたって打ち据えました。この第五の巻には、末法に法華経を弘通するならば、刀杖の難等に遭うと説かれている「勧持品」が納められており、このことから大聖人は後年、少輔房を経文符号の恩人とされています。

 平左衛門尉等の暴挙が続くなか、大聖人は大音声をもって、

「あらをもしろや平左衛門尉がものにくるうを見よ、とのばら、但今ぞ日本国の柱をたをす」(種々御振舞御書 新編1058頁)
と喝破されました。これが第2回目の国家諌暁です。

 乱暴狼藉のかぎりを尽くしていた平左衛門尉とその郎従は、この大聖人の気迫に圧倒され、一瞬にして静まり返りました。

 

4 佐渡期

竜口法難(発迹顕本)

 文永8年(1271年)9月12日、日蓮大聖人は、松葉ヶ谷の草庵から鎌倉の街中を重罪人にように引き回されて評定所へ連行され、平左衛門尉より「佐渡流罪」を言い渡されました。

 しかしこれは表向きの評定であって、内実はひそかに大聖人を斬罪に処する計画が企てられていました。事実、深夜になると大聖人は処刑のために竜口の刑場へ護送されています。その途中、鶴岡八幡宮の前にさしかかったとき、大聖人は馬から下りられ声高に、

「いかに八幡大菩薩はまことの神か」(種々御振舞御書 新編1059頁)
と叱責し、法華経の行者に対する守護はいかばかりかと八幡大菩薩を諌められました。

 また由比ヶ浜を通り過ぎたところで、大聖人は熊王丸という童子をつかわして四条金吾に事の次第を知らせると、金吾はただちに大聖人のもとに駆けつけ、殉死の覚悟で刑場までお供をしました。刑場に到着したとき、金吾はおもわず嗚咽しましたが、大聖人は、

「不かくのとのばらかな、これほどの悦びをばわらへかし、いかにやくそくをばたがへらるヽぞ」(種々御振舞御書 新編1060頁)
とたしなめられました。その処刑の瞬間、突如として江ノ島の方角より月のような光り物が南東より北東に光り渡り、太刀取りはその強烈な光に目が眩んで倒れ伏せました。取り囲んでいた兵士たちも恐怖におののいて逃げ惑い、ある者はひれ伏すなどのありさまで、結局、大聖人の命を絶つことが出来ませんでした。

 この大聖人の身の上に起こった竜口における法難は、これまでの上行菩薩の再誕日蓮としての仮の姿(垂迹身)をはらって、久遠元初自受用報身如来即日蓮という真実の姿(本地身)を顕されたという重大な意義をもっています。これを「発迹顕本」といいます。

 このことについて大聖人は、

「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此は魂魄佐渡の国にいたりて云々」(開目抄 新編563頁)
と明かされています。

 この「魂魄」とは、まさに久遠元初の自受用身としての魂魄であり、大聖人はこの竜口法難という身命を堵する大法難のなかで、久遠元初の御本仏としての御境界を開顕されたのでした。

 

佐渡配流

竜口における頸の座の後、大聖人は、相模国依智(神奈川県厚木市)の本間邸に1ヶ月近く拘留されました。そして文永8年(1271年)10月10日、佐渡配流のために依智を出発されました。

 そして同月28日に佐渡の松ヶ崎へ着き、11月1日には配所である塚原の三昧堂へ入られました。

 厳冬の地・佐渡の三昧堂での御生活は、

「塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあらず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし。かヽる所にしきがは打ちしき蓑うちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪雹・雷電ひまなし、昼は日の光もさヽせ給はず、心細かるべきすまゐなり」(種々御振舞御書 新編1062頁)
と記されているように、このうえなく厳しい状態でした。しかも島民たちは念仏信者であり、大聖人は常に身の危険にさらされていました。

 このようななか大聖人は、翌年の1月16日、塚原において領主・本間六郎左衛門の立ち合いのもと、数百人の諸宗の僧らを相手に問答し、これらをいとも簡単に打ち破られました。問答が終わり立ち去ろうとする六郎左衛門に対し、大聖人は、近いうちに鎌倉に戦が起こる旨の予言をされました。

 その1ヵ月後、大聖人の予言は「二月騒動」という北条一門の同士討ちとして現れ、この予言的中により、島民の中には大聖人に畏敬の念を抱く者たちが出てくるようになりました。

 

佐渡期の御著作

 日蓮大聖人は、佐渡配流中において「生死一大事血脈抄」「諸法実相抄」「当体義抄」等、50編を超える多くの御書を著されています。

 その代表的な著述書に「開目抄」と「観心本尊抄」が挙げられます。

 「開目抄」は文永9年(1272年)2月、紙や筆の乏しい極寒の塚原三昧堂において著されました。この書は、当時鎌倉の弟子や信徒たちのなかで、大聖人の佐渡配流によって信心に動揺をきたす者が出てきたという一門の危機にあたり、それらへの教導と、さらには仏法に無知な末法の衆生の盲目を開かしめることを目的として書かれたものでした。この「開目抄」には、身命にも及ぶ法難を受ける日蓮大聖人こそが法華経の行者であることが示され、さらに末法における主師親三徳兼備の仏が御自身であることを明示されており、このことから同抄は「人本尊開顕の書」といわれています。

 「観心本尊抄」は、翌年4月25日、一谷において著されました。この書は、「日蓮当身の大事」(観心本尊抄副状 新編662頁)と示される重要書で、その内容は、末法のはじめに本仏日蓮大聖人が出現し、一切衆生のために寿量文底下種の本尊を建立されることが明かされています。このことから当抄は「法本尊開顕の書」といわれています。大聖人は、

「法門の事はさどの国へながされ候ひし已然の法門は、たヾ仏の爾前の経とをぼしめせ」(三沢抄 新編1204頁)
と仰せられ、発迹顕本される以前と以後との法門とその御化導には、大きな違いがあることを教示されています。

 すなわち、佐渡以前は上行菩薩の再誕として題目弘通を中心とした御振る舞いでしたが、発迹顕本されて以後は、御本尊を顕され、末法の御本仏としての御境界のうえから御化導されているのです。

 

赦免

 文永11年(1274年)に入ると、再び蒙古の使者の到来により、「他国侵逼難」が現実味を帯びてきました。

 さらに天変地夭も相次いで起こり、世情はますます混乱し、民衆は不安な日々を過ごしていました。

 執権北条時宗はこれらの事相が大聖人の予言どおりであり、さらに大聖人を流罪に処する根拠のないことに気づき、2月14日、佐渡流罪の赦免状を発したのです。この赦免状は3月8日に届き、これを受けて大聖人一行は13日に一谷を立たれました。

 途中、大聖人に殺意を抱いていた越後や信濃の念仏者たちは、善光寺に集まり待ち伏せをしていましたが、兵士の警護によって大聖人は無事、26日、鎌倉の地に到着されたのです。

 この2年半の佐渡流罪中、日興上人は大聖人に給仕を尽くされ、また阿仏房夫妻・国府入道夫妻・最蓮房・中興入道等が大聖人に帰依しました。

 

5 身延期

第三の国諌

 文永11年(1274年)3月26日、鎌倉に帰られた大聖人は幕府より出頭命令を受け、4月8日、平左衛門尉をはじめとする幕府の要人と対面されました。

 竜口法難のとき、居丈高であった平左衛門尉は以前とは違い、態度を和らげて大聖人を迎え、爾前得道の有無や蒙古の来襲の時期などについて質問してきました。これに対して大聖人は、爾前の諸宗では成仏できないことや、今までのように真言僧たちに祈祷・調伏を申し付けるならば必ず日本は破れるであろうこと、また天の怒りも少なからず、蒙古の襲来は今年中に必ずあることを断言し、早く邪法への執着を断ち帰依するよう諌暁されました。

 幕府は、諌言のなかの予言中のみを恐れて、大聖人に対し東郷館の跡地に堂舎を建立寄進することを条件に、他宗の僧と同じく国家の安泰を祈祷してほしいと願いましたが、大聖人はこうした幕府のもくろみを一蹴されました。

 このことは大聖人が、世間的な名声や権力による庇護を望まれたのではなく、ただ人々の不幸の原因である邪義を退治し、正法を信受せしめ平和な国土の建設を願われていたからにほかなりません。

 

身延入山

 大聖人は、3度にわたる諌言を幕府がまったく用いることがなかったため、「三度国を諌めても受け入れられない時は山林に入る」との故事に倣い、文永11年(1274年)5月、53歳のとき、身延へ入山されました。

 身延の地は、甲斐国(山梨県)南巨摩郡に属し、日興上人に教化された波木井実長が地頭を務めていました。大聖人は、高い山々に囲まれた閑静なこの身延において、四恩報謝の読経・唱題をされるとともに、万代にわたる令法久住・広宣流布の大計をはかり、特に「法華取要抄」に、はじめて上行菩薩の出現による本門の本尊・戒壇・題目という三大秘法の名目を示されました。

 また法門書等の執筆や弟子の育成に専念されました。

 この身延での大聖人の御生活は食料も乏しく、特に冬は厳しい寒さとの闘いの日々でした。

 また、各地の信徒から御供養の品々も送られてきましたが、多くの弟子たちを養うには充分なものではなく、質素きわまる生活を過ごされていました。その頃の様子を大聖人は、

「蘇武が如く雪を食として命を継ぎ、李陵が如く蓑をきて世をすごす。山林に交はって果なき時は空しくして両三日を過ぐ。鹿の皮破れぬれば裸にして三・四月に及べり」(単衣抄 新編904頁)
と記され、また、
「此の身延山には石は多けれども餅なし。こけは多けれどもうちしく物候はず」(筵三枚御書 新編1592頁)
と仰せられています。

 こうした厳しいなかにあっても、大聖人は昼夜にわたって法華経を読誦し、法華経の講義をされました。その講義を聴聞する弟子や信徒たちも次第に増えていきました。

 

蒙古来襲

 身延に入山されて5ヶ月後の文永11年(1274年)10月、ついに大聖人の予言どおり、約2万5千余の蒙古の大軍が日本に来襲(文永の役)してきました。

 蒙古軍は、10月5日に対馬に上陸、14日には壱岐へ攻め入って無防備の島民を殺戮し、20日には勢いに乗って博多湾西部に上陸し、大宰府まで侵攻してきました。この戦乱によって、対馬国の守護や鎮西奉行をはじめとする多くの武将や勇士が討ち死にしました。

 大聖人は、このような悲劇の原因を、

「是偏に仏法の邪見なるによる」(曽谷入道殿御書 新編747頁)
と断言され、すみやかに国中の謗法をやめ、正法に帰依しなければならないことを訴えられています。なお、7年後の弘安4年(1281年)5月にも、蒙古が文永の役を上回る大軍で来襲(弘安の役)しています。

 

熱原法難

 文永11年(1274年)、大聖人が身延に入山されたあと、日興上人は甲斐・駿河・伊豆方面への折伏弘教を展開されました。

 特に幼少時代に修行した富士地方の蒲原四十九院・岩本実相寺を中心に飛躍的に教線が伸びていきました。

 それにともない建治元年(1275年)頃には、天台宗の古刹、滝泉寺の寺家僧である下野房日秀・越後房日弁・少輔房日禅等が帰伏改宗しました。

 さらにこの折伏は近在の人々にまで進み、熱原郷の農民たちから信頼されていた神四郎・弥五郎・弥六郎の三兄弟が帰依するなど、その後も入信者はあとを絶ちませんでした。

 この状況に危機感をおぼえた滝泉寺の院主代・行智は、幕府の要人であった平左衛門尉を後ろ盾に、政所の役人と結託して反法華党を組織し、熱原の法華講衆を粉砕する機会を狙っていました。

 そして弘安2年(1279年)9月21日、行智は、多くの法華講衆が下野房日秀の田の稲刈りを手伝っていることを聞きつけ、すぐさま武士たちを駆り集めて押しかけ、農民たちに手傷を負わせました。神四郎以下20名はその場で取り押さえられ、下方政所へ拘留されました。さらに行智は、前に懐柔しておいた神四郎の兄・弥藤次の名をもって、神四郎等を罪人に仕立てあげる卑劣な訴状を作り、鎌倉の問注所に告訴するとともに、農民たちをその日のうちに鎌倉へ押送しました。

 この事件の知らせを受けた日興上人は、すぐさまその状況を身延の大聖人に報告されました。

 これを聞かれた大聖人は熱原の信徒たちのことを深く思いやられ、さっそく「聖人御難事」をしたためて門下一同の団結と奮起をうながされるとともに、日興上人に「滝泉寺申状」を清書させて問注所に真相を訴えられました。

この「滝泉寺申状」が提出された10月15日、平左衛門尉は私邸で尋問を執り行い、事件の真相には触れることなく、「汝ら速やかに法華の題目を捨てて念仏を称えよ。さもなくば重罪に処す」と威嚇しました。

 しかし、常に法華経への信仰を教えられていた神四郎たちは、少しもひるむことなくひたすら題目を唱え続けました。この農民たちの唱題の声に激怒した平左衛門尉は、当時13歳であった息子の飯沼判官資宗に蟇目の矢を射させて拷問を加えてきました。しかし法華講衆の信念は微動だにすることなく、唱題の声はますます高くなるばかりで、これにより狂乱の極に達した平左衛門尉は、無惨にもついに農民の中心者であった神四郎・弥五郎・弥六郎の3人を斬首にしたのです。

 この熱原の法難は、当時の下位層であった農民たちがどのような圧力にも屈することなく、正法護持を貫いたことによって終結しました。特に殉死した3人は後に、「熱原の三烈士」と呼ばれ、末法信徒の鑑としてたたえられています。

 なお、終生にわたって大聖人を迫害し続けた平左衛門尉は、神四郎らを斬罪に処した14年後の永仁元年(1293年)、法華の現罰を受け、一族もろともに滅亡しています。

 

本門戒壇の大御本尊

 大聖人は、入信まもない熱原の農民たちが、身命に及ぶ大難に遭いながらも命を賭して正法を守り抜こうとする信心を嘉せられ、いよいよ下種仏法の究境の法体を建立する大因縁のときの到来を感じられました。

 このことについて大聖人は、10月1日の「聖人御難事」に、

「此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり」(新編1396頁)
と仰せられ、今こそ出世の本懐を遂げるときであることを予証されています。

 そして熱原法難の弾圧の吹き荒れるなか、弘安2年(1279年)10月12日に、出世の本懐として「本門戒壇の大御本尊」を顕されたのです。

 この御本尊は末法万年の流布を慮られて楠の厚き板に御図顕され、弟子の日法に彫刻を命ぜられています。

 本門戒壇の大御本尊について、総本山第26世日寛上人は、

「弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究境の中の究境、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり」(観心本尊抄文段 文段197)
と述べられ、大聖人御一期における本懐のなかの本懐であることを教示されています。

 

6 御入滅

日蓮一期弘法付嘱書<いちごぐほうふぞくしょ>

 弘安5年(1282年)9月、大聖人は弟子の中から日興上人を選ばれて、本門戒壇の大御本尊を付嘱されるとともに、御自身亡き後の門下を統率し、正法正義を後世に伝えていくよう後事を託されました。その証として日興上人に対し、

「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法をたてらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せられべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。弘安五年壬午九月 日 日蓮花押 血脈の次第 日蓮日興」(新編1675頁)
との「日蓮一期弘法付嘱書」を授与され、大聖人の仏法の一切を血脈相承されました。

 そして本門戒壇の建立地については、これまで「霊山浄土に似たらん最勝の地」としか明かされていませんでしたが、この付嘱書においては具体的に「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべき」と御遺命されたのです。

 このように大聖人が日興上人に相承されたのは、日興上人が数多のあまたの弟子の中でも、大聖人に対する絶対の帰依と師弟相対の振る舞いをもって常随給仕されたこと、さらには学解の深さや人格の高潔さなど、あらゆる点で群を抜いておられたからにほかなりません。

 そしてまた、教えを誤りなく後世に伝えるために仏法の方規に基づき、ただ一人の弟子を選んで相承されたのです。

 

武州池上

 晩年、健康を損なわれいた大聖人は、弟子たちの熱心な勧めによって、常陸の湯(福島県いわき市)へ湯治に向かわれることになり、弘安5年(1282年)9月8日、日興上人をはじめとする門弟たちに護られて身延の沢を出発されました。

 その途次、同月18日に武州池上(東京都大田区)の地頭・右衛門大夫宗仲の館に到着されました。

 大聖人はこの池上邸において、弟子檀越に対して同月25日より、「立正安国論」の講義をされました。この御講義は門下一同に対し、身軽法重・死身弘法の精神をもって、広宣流布の実現に向かって精進せよとの意を込めて行われたものでした。このことによって古来、「大聖人の御生涯は立正安国論にはじまって立正安国論に終わる」といい伝えられています。

 

身延山付嘱書

 大聖人は弘安5年(1282年)10月8日、本弟子6人(日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持)を定められた後、前に法嗣に選定されていた日興上人に、「御本尊七箇相承」と「法華本門宗血脈相承事(本因妙抄)」を允下・付与されました。

 さらに10月13日の早晨、大聖人は御入滅を間近に感じられて、日興上人に対し、

「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家の輩は非法の衆たるべきなり。 弘安五年午十月十三日 武州池上 日蓮花押」(身延山付嘱書 新編1675頁)
と、身延山久遠寺の別当(貫首)に付嘱されました。

 この「身延山付嘱書」では、唯授一人の血脈相承を受けられた日興上人に随わない門弟・檀越は、大聖人の仏法に背く非法の衆・謗法の輩であると、厳しく諌められています。

 このように日興上人は、前の「日蓮一期弘法付嘱書」において法体の付嘱を受けられ、また「身延山付嘱書」においては一門の統率者としての付嘱を受けられました。これら二箇の相承は、ともに日興上人を唯授一人・血脈付法の本門弘通の大導師として明確に示しおかれたものでした。

 

御入滅・御葬送

 弘安5年(1282年)10月13日、辰の刻(午前8時頃)、すべての化導と相承を終えられた大聖人は、弟子・檀越が唱題するなか、御歳61歳をもって安祥として御入滅されました。

 そのとき、突如大地が震動し、初冬にもかかわらず桜の花がいっせいに咲いたと伝えられています。

 御本仏である大聖人の御入滅は、滅に非ざる滅であり、滅に即して常住の妙相を示されるという甚深の意義をもっています。

 明けて14日、戌の刻(午後8時頃)に入棺され、子の刻(午前零時頃)に御葬送、荼毘に付され、御灰骨は宝瓶に納められて、御葬儀は滞りなく厳修されました。

 この御葬儀の一切は、御遺命のとおり、日興上人が嫡々付法の大導師として総指揮を執られ、その様子を日興上人自ら「宗祖御遷化記録」として記されています。その後、日興上人は初七日忌の御法要を奉修され、同月21日早朝、御灰骨を捧持して池上を発ち、同月25日に身延へ帰山されました。

 

本門弘通の大導師

 身延山久遠寺の別当(貫首)として入山された日興上人は、本門弘通の大導師として本門戒壇の大御本尊を守護されるとともに御灰骨の廟所を定められるなど、一切の指揮を執られました。

 しかしその後、数年を経ると、日興上人の初発心の弟子である地頭の波木井実長は、六老僧の一人である民部日向に誑惑されて数々の謗法を犯すに至り、日興上人の度重なる訓誡も聞き入れず、敵対するほどになってしまいました。

 そこで日興上人は、これ以上、身延に留まっていては大聖人の教えが謗法にまみれてしまうと考えられ、さらには令法久住と広宣流布のために、正応2年(1289年)春、本門戒壇の大御本尊をはじめ、大聖人の御灰骨、御書、御遺物の一切を捧持して、日目上人や日華・日秀・日尊各師らの弟子とともに身延を離山されました。

 そして正応3年(1290年)10月12日、日興上人は富士上野の地頭・南条時光より寄進された富士山麓の大石が原に「大石寺」を創建し、大聖人の仏法流布の基礎を築かれました。

 

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